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秋田の手話で語る Vol.3の追加について

地域に生きるろう者が暮らしの中で紡いできた「秋田の手話」が、この先もずっと続いていくことを願い、手話動画を作成しました。

地域のろう者の豊かな手話表現そのままを見ていただくため、敢えて映像に字幕を付けておりません。ご本人確認のもと、内容を文にまとめました。

この映像をとおし、手話という豊かな言語に触れ、地域のろう者の暮らしや思いを知ってほしいと思います。

※個人情報に配慮して、個人名は伏せて表記しています。

秋田の手話で語る vol.3 人生いろいろ~野球少年から歳を重ねて M.Mさん

私は、M.Mと申します。

私の誕生日は、昭和29年5月20日です。お分かりになる方もいると思いますが、私は双子の弟で兄弟3人ともろう者です。弟は、東京で暮らしています。

 私と兄が聞こえなくなったのは、3才の時です。母が、私と兄をおんぶして病院まで走り、助けてと母が病院の扉をたたいていることにようやく気付いた医者が私たちを診ると、「高い熱が出ている。注射を打てば熱が下がるが、そのかわり耳が聞こえなくなるかもしれない。」と母に言ったそうです。その話を、後で聞いた時は、びっくりしました。私たち兄弟3人は、耳が聞こえないことは、特別なことと思わずに今まで生きてきました。聞こえないから悔しい等と言う人がいますが、私たち兄弟は、皆、聞こえなくても結構楽しんで暮らしています。

 

 ある日、遠い親戚の井上さんから、ろう学校と寄宿舎があると言われ、両親と私と兄の4人で寄宿舎に見学に行きました。とても大きな寄宿舎で、知らない小さな子もいてこちらを注目していました。後で記録を見て知ったのですが、当時は325人も生徒がいたそうで、大変驚きました。

そして、昭和36年4月に入学しました。自分たち兄弟だけと思っていましたが、他にも聞こえない入学生が並んでいました。先生の口話の内容はわかりませんでした。両親に、「この人が担任の先生で、隣に並んでいる子たちが同じクラスの生徒だよ」と教えてもらいました。A・B・C・Dのクラスがありました。

 小学1年~4年は、専ら口話の勉強で、発音のための50音表が貼られていました。また、綿のような、上が赤で下が白い紙で発音の時の揺れ具合を見ました。か行・さ行・た行等、いろいろな行の発音を確かめるのですが、小学4年生になり、ようやく発音練習にも慣れました。その頃、私は手話のこともわからなかったので、言われたことにはただ頷いたりしていました。

寄宿舎に帰ると、皆、とたんに手話で会話するのでした。私は手話がわかりませんでしたし、兄もわからないので、ただその手話で会話する様子を見ていただけでした。そのうち、誰かが私のところに来て私を指さし、手を動かして何か言うのですが、何のことかわからずにいると、寮母さんが、「あなたの家はどこですかと言っているよ」と教えてくれました。そして、尋ねてきたその子に「私の家は………」と言うと、その子は口の動きをじっと見て、「あぁ、わかったわかった」と、話が通じるという具合でした。手話ができなくても口話で通じる時もあれば、生徒の中には、口話や読話ができない人、手話だけで話す人等いろいろな人がいることを、私は寄宿舎生活で初めて知りました。

 

その後、担任の先生が変わりましたが、その先生は、生徒ひとりひとりの様子を見て優劣をつけているように見えました。私は真面目ではなく、やんちゃな生徒でしたが、先生から毎日テスト問題集を渡され、それを繰り返し解いているうちに、だんだんと賢くなっていった気がします。

 その頃、授業では手話は禁止されており、先生にあてられるまでじっとして、あてられると口話で答えるいうような授業で、私にはしっくりきませんでした。

 ある日、東北の双子の兄弟の調査ということで東京からのお客様が来て、「手術すれば、聞こえるようになりますよ」と母は言われたようでした。兄と「どうする?手術する?」などと話をしましたが、結果、手術はしないことにしました。若い人たちでも、いずれ高齢になると聞こえにくくなるので、手術して聞こえるようになっても意味がないと思えて、今のままでいいと答えたのです。その人が言うには、「聴力検査をして、聞こえる人と同じくらいではないが、音がしたことはわかるようだ。」ということで、そのような聞こえ方は、どうやら珍しいことらしく、東京に戻って研究しますということで帰っていきました。それからは、一度も連絡がくることはありませんでした。

今思えば、寄宿舎生活は楽しいものでした。ひまわり会や七夕、クリスマス等、季節ごとの行事がいろいろとあって楽しかったです。小学4年生から高等部の生徒までが、寄宿舎生活を共にしていたのです。

 そして、私の一番の楽しみはというと、野球でした。土曜日のお昼までの学校が終わると、先輩後輩関係なく、小さい子でも誰でも誘い合って野球をしました。縦一列に並んで、順番に左右に分かれていき、上手下手で差がでないようチーム分けをしました。野球は、本来9人制ですが、チーム13人に対し相手チームは16人であったりと、人数はこだわらずやっていました。小学部4年から中学部3年の間、4月から秋頃の9月~10月頃まで、時間があれば野球をしているような、いわゆる野球少年で、とにかく野球に明け暮れていました。卓球やバレーボールには、ほとんど興味がなく、野球一筋でした。バット1本でグローブもなく、グローブを持っている人から借り、交替で使っていました。また、スパイクシューズも持っていなかったので、はだしで野球をしたりしていました。周りも皆貧乏だったので、特に気にしませんでした。そのように、夏休みは、日焼けで真っ黒になるくらい野球三昧の日々でした。高等部になると卒業する人もいて、一人減り二人減りと寂しくなっていきました。

部活動は卓球・陸上・バレーボールしかなく、どれかのスポーツを選んでやっていました。

小学部1年から高等部3年までのろう学校の授業は厳しかったです。

口話と読話、もう一つ何かあったと思いますが、いずれにせよ口話の学習が一番厳しかったのです。卒業式では、口話賞をもらえるのですが、選ばれる生徒はずるいなと思いました。聞こえていたので口話が上手にできる人なのです。自分の場合も小さい時から練習を重ね、口話ができるようになってきていたので、てっきり選ばれると思いきや、いつまで経っても名前を呼ばれることはありませんでした。学校の話し合いで決まったことなら仕方がないですね。

卒業してから社会に出て、あれだけ口話訓練を学校でしてきたのだからと口話で話してみるも、長文になってくると通じないのです。その点、手話でのやり取りは通じるのです。口話は100%完璧ではないのです。中には、口話が得意な人もいましが、私には口話は無理でした。しかし、筆談は、勉強を習ったおかげでできるようになりました。手話にも慣れてきて、このようにして生活してきました。

高等部1年の時、一つ上の陸上部の先輩が寄宿舎に来て、「陸上部で400メートルリレーのメンバーが1人足りないから、どうかメンバーなってほしい」とお願いされましたが、私は、「すぐには決められない。少し考えたいので、返事を待ってほしい」と言いました。帰宅し母に相談すると、「それはやったほうがいい!やれ!おまえが小さい時に、いつも運動会では、大きなパンツをはいての徒競走では、ダントツの速さで有名だったんだよ。だから入れ。お母さんも若い頃は、走るのは得意な方だったんだよ。」と言われ、私は誘ってくれた相手に「リレーのメンバーになる」と言うと、相手は喜び、こうしてリレーメンバーが揃ったのでした。 

練習を重ねて、高校2年の時には、全国大会に行き、どうにか1位をとることができました。私の学校は、男子総合2位、女子は優勝し、結果、総合優勝を果たすことができました。高等部3年の時は、陸上部に入って2年目になるのですが、再び優勝したのです。その年は女子の成績は振るわず、男子の成績はというと、100m走、200m走、5000m走等、ひとつひとつの競技では1位のメダルを取った種目はなく、すべての競技で一律2位だというのに1位だというのです。半信半疑でしたが、なるほど、全ての競技成績を足していくと結果1位になるのでした。なんとか2年連続で総合優勝を果たし、みんな喜んでくれました。

その後、父は学校に提案をし、卒業後に優勝カップを個人で持って行くことはできないので、かわりに何か記念になるようなものをと記念品を作ってもらい、皆もらうことができました。今も私の思い出の品として、大事にしています。

さて、私は、卒業後の昭和48年に、求職活動を始めました。ろう学校の寄宿舎生活では、周りの人と手話でコミュニケーションをとることができたのに、卒業して社会に出てみると違っていました。

会社の社長さんが、担当者に自分のことを頼んだようで、その人に言われるがままついて行くと、「ここが君の担当だよ」と言われました。ところが、仕事の内容もわからないし、何から始めたら良いのかもわからず、することもなく、ただずっとそこにいました。ある日、社長が私を心配して様子を見に来くると、私の状況を知ったようでした。仕事ができていないのです。練習ができたろう学校と職場では状況は違っていました。学校では、まずは基本を教わるので内容を理解することができたのですが、職場では教えてくれないので仕事の仕方がわからなかったのです。会社としても給料を出す以上、働いてもらわなくては困ります。「きちんと働きなさい」と叱られたので、私は、仕事のやり方がわからないことを伝えました。そして、仕事の手順等を教わるようになり、少しずつ仕事に慣れていきました。

仕事を始めて2年が過ぎた頃、残念ながら、父の仕事の都合で秋田市に引っ越しました。私は(また引っ越すのか)という気持ちでした。引っ越し先から職場までの通勤を考えると、家族の中で自分だけが遠距離通勤になり、早朝の食事の支度等で母に難儀をかけてしまうことになるのです。父が牛島駅まで車で自分を乗せ、そこから自分は電車に乗って職場に通いました。また、自宅には電話もなかったので、残業の連絡をしたくても連絡できません。父は、朝5時、7時と、子どもたちの通勤時間に合わせて駅に送ると忙しくなり、やはり引っ越し先からの通勤は不便で大変だということで、今までの感謝を伝え、その会社を辞めました。会社側では、ずっと続けてくれると思っていて残念だったようです。でも、仕方がありません。家族から一人離れて暮らすのも難しいし、家族皆一緒に暮らした方が安心です。自分の通勤のために、早朝から母に難儀をかけることもなく、母もその方がゆっくりできるのではと思ったのです。

さて、そうなると、今度は秋田市での就職先を探さなくてはなりませんが、なかなか見つかりません。父の仕事関係の人から職場を紹介してもらい、その職場に行ってみました。社長さんはというと、あごひげを生やした強面の人でした。とても怖そうに見えたのです。私固まっていると、「挨拶したら?」と父に言われ、口頭で挨拶をしました。社長は、それを聞いて、OKサインを出しました。私はただ挨拶をしただけだったので、何がOKなのかわかりませんでした。仕事のことを質問され、印刷の仕事のこと等いろいろと聞かれ、製本の経験はないが写植オペレーターの経験はある、製版カメラのことは全くわからないと伝えると、「大丈夫。後で教えてあげるから。」と言われ、「長く勤めあげるように頑張ってほしい。仕事中は、さぼらずきちんと仕事をするように。」ということでした。

それ以来、ずっと仕事を続けていましたが、残念なことに、ある時、腎臓からくる不調による結石などで、仕事を休むことも多くなり、これではこの仕事を続けていくことは難しいと思い、辞めました。

その後、しばらくは仕事をしていなかったのですが、「あいつは仕事もしないでぶらぶらしているらしい」と私のことが噂になっていると知り、妻とも相談し、一日でも早く仕事をするために、職を探していたのですが、たまたま日中3時間だけの印刷の仕事をすることになり、次に見つかった仕事は、ビルのような建物の中の掃除です。朝だけではなく夜勤もある仕事で、40歳からその仕事を始めました。ある時、仕事中にまた体に痛みが走ったのですが、夜でした。そこで、通訳者の小沼さんに連絡をと思ったのですが、連絡先がわからなかったので、市役所にお願いして連絡してもらい、通訳のために来てもらうことができました。その時、通訳者の必要性を強く感じたのです。それまでは、妻は通院に手話通訳者に同行してもらっていても、自分は、筆談でやり取りができるからそれでいいと、特に通訳が必要とは考えていませんでした。ただ、実際、夜間に具合が悪くなり病院に行くとなると、電話もできず、妻も慌て、父母に助けてもらったものでした。

手話通訳者は本当に必要です。病気の時だけではなく、冠婚葬祭の場面や相続の時にも、通訳者が必要なのです。